2010年12月23日木曜日

11 : 小さな目


今日は影がいない日だ。影がいない日は心持ち足取りが軽い。それは影がちょっとだけ重さを肩代わりしてくれるからだという。
「ええ、あなたのおかげでどこに出しても恥ずかしくない立派な影としてやれているわけですから、これくらいのお礼は当然です。」
影はそういって朝からどこかへ行ってしまう。僕の重さをちょっと持って。
影がいったいどこで何をしているのか知らないが、たまに誰かの影がスーパーで特売弁当を買っていたり、ハトにポップコーンをやっていたりするのを見かけるから、そんな風に過ごしているのだろう。
影がいなくなるのは月に2度ほどで、水曜日と木曜日が圧倒的に多く、たまに金曜日のときもある。月曜日が年に3度ほど、火曜日だったことは1度もなかった。
土日祝日は影にとっても休日であるらしい。僕の足下にぺたりと張り付き、ゆっくりしている。用事がないときは一緒にトランプをしたり花札をしたりしている。トランプは僕の圧勝だが、花札は影が一枚上手だ。1度コツを聞いたが、企業秘密と教えてくれなかった。
僕はそんな休日が大好きだ。影がいるとなんだか窮屈、なんて人もいるらしいが、僕はもっと影と過ごしていたいと思っている。そういうことを影にいうと、顔も表情もない影はちょっとはにかんだように笑い、その後寂しそうな顔をする。影曰くあまり影と親しくするのはよろしくないらしい。
「影には影の領分があります。そこに踏み込むことは絶対にできません。あなたと私が形と影の関係にある限り。」


影のいない木曜日、仕事場で僕の影がないことに気づいた同僚に声をかけられた。
「おっ、今日は影なし日か。どうよ、調子は?」
僕はあいまいに頷き、同僚に影がいたほうがいい気がすると言った。すると同僚が、
「なあ、影ってどこで何をしてるんだと思う?」
などと言い出した。僕がおおかた公園でのんびりでもしてるだろうというと、
「いや、実はな‥‥ どうも、影で集まって何かを議論してるらしいんだよ。」
全く眉唾な話だ。同僚も馬鹿な話であることは理解していて、にやりと笑いながら
「影達は、自分達が人間の影に甘んじていていいのか、独立した影としてやっていくことこそ影の未来の方向性である、みたいなことを話し合ってるらしいんだ。」
ほら話もここまでくるとちょっとしたハリウッド映画みたいだ。
「でな、ライバルの例の会社。影に肩入れして、うまいこと取り入ろうとしてるってよ。」
噂の出自を問いただすと、
「うちの部長だよ。」
と、あっさり全貌は成績の伸び悩みでイライラした部長の愚痴であることがわかった。
「まあ、影なんかに興味持ってる暇があったら、仕事でもした方がよさそうだな。」
そう言って同僚はそそくさと自分の持ち場に戻っていった。どうやら噂の部長が会議から戻ってきたようだ。


影のいない木曜日のある日、誰かの影を見かけた。川べりの原っぱで野良猫に猫じゃらしを振っていた。そこで同僚の話を思い出した。こんな善良な影がまさかそんなことを企んでいるはずもない。本気にはしていないが、何となく興味があったので近づいた。猫がこちらを一瞥したが、またすぐ猫じゃらしに気を取られた。小さな目に映る誰かの影の姿は、とても幸せそうだった。
こんにちはと挨拶をする。誰かの影がこちらを振り返った。誰かの影はとまどっているようだった。シャイなのかもしれない。
ここにはよく来るのかと聞いても、誰かの影はなおもたじろいでいた。僕はだんだん影への興味を失っていった。
「猫が好きなんですか?」
と聞くとようやく誰かの影は
「ええ、ここにもよく来ます‥‥」
とポツリと言った。
天気の話をし、猫を少し撫で、僕は誰かの影に別れを告げ家に帰った。



家に帰ると僕がいた。僕は僕におかえりといい、コーヒーをいれてくれる。
コーヒーを飲み、いつの間にか手にしていた僕の重さを返し、僕は影になった。
週末の予報は雨。
絶好のカードゲーム日和だ。