2010年7月25日日曜日

10 : 光の柱





石造りの長い階段を登り切るとそこは夜の中だった。
振り返る眼下にはガス灯がまばらに灯り、見上げる星々は力強く空を所有していた。
古びた神社に人影はなく、野村は一組の狛犬に出迎えられた。

野村がここを訪れたのは単なる気まぐれだった。頼まれた原稿の執筆のために、野村はひなびた温泉街に取材旅行へとやってきた。遠出を促す紀行文の類だが、なかなか書けずにもんもんとしていた。筆がのるとひたすら書き続ける性格の野村は、昨日の早朝ようやく訪れた波にのって原稿を書き終えた。昼間に死んだように眠り、夜中の2時には起きてしまい、ずっと自己主張を続ける空腹をなだめすかせるために、朝食の時間まで深夜の散歩に出かけたのだった。

夜の神社も乙なものだと、野村は月明かりを頼りに境内の散歩をした。こんなことなら部屋から酒を持ってくれば良かった。いやいくら何でも旅先の見知らぬ神社で、いきなり酒を飲むのは不敬だな。そんなことを考えながら、野村は鎮守の森へとさしかかった。

ほのかに浮かぶ木々の輪郭を目印に細い道を歩いて行く。幸い道はそれなりの確かさを持っていた。しばらく歩を進めると、一際濃い闇があたりに広がった。巨大な樹木だった。あまりの大きさに野村はしばらく見とれてしまっていた。その木は、年月を経たものだけが帯びる独特の格をあらゆるところから放っていた。信仰とはこういうところから生まれるのだろう。自分のいる世界とは理を異にする場所、この二つの小さな目では推し測ることさえできない、遙かに大きなモノたち。この世界とそれらは、ふとしたきっかけで交差し、互いを垣間見させる。野村はそんなことを考えつつ、御神木へと手を合わせた。

御神木を参拝し終え、野村は境内へと戻ってきた。昼間の熱がいまだに残っているのか、夜でも蒸し蒸しと暑い。野村はずっと喉の渇きを覚えていた。ふと傍らに目をやると、手水らしきものがある。あたりに人などいるはずもない。一応心の中でこの神社に鎮座まします神様へ断りをしてから、迷わず置いてあったひしゃくを手に取り、野村は手水の水をごくごくと飲んだ。甘みのあるうまい水だ。野村はそのまま4杯ほど飲むと、ふぅっと息をついた。普段は水のうまさなんてほとんど考えないが、喉の渇いたときに飲む水は何よりうまい。しかし水を飲んだせいで耐え難い空腹が襲ってきた。上を見上げると空は白み始めていた。そろそろ帰り時だ。野村は神社を後にすることにした。

階段を中腹まで下ると、夜明けがやってきた。何本もの光の柱が空と大地とを突き刺していた。何百年も前の人間も同じような空を見て、また信仰心を深めたのだろうか。野村は今回の一連の散歩を次の小説にでも使おうかと思い、そこでこの神社についてほとんど何も見ずに来てしまったことに気づいた。途中まで下りてきてしまってはいたが、戻ってせめてどなたを祀っているかくらいは調べた方がいいだろう。野村はまた階段を上っていくことにした。

立て看板を一通り読み、頭に刻み込むと、野村は最後にもう1杯だけ水を飲もうと手水へ近づいた。だが野村はその手水に違和感を覚えた。さっきと位置が違うのだ。野村は自分の足取りをもう一度思い起こし、手水があったはずの場所に目をやると、そこにあるのは雨水を貯める桶だった。近づくとぼうふらがうじゃうじゃと蠢いた。野村は空っぽの胃から水を吐いた。喉の奥が焼けるように痛い。身体の中でぼうふらが踊るような心地がして、身震いをした。

ある程度落ち着いた後に野村はふらふらとした足取りで宿へと帰り、書き上げた原稿を出版社まで郵便で送るよう女中に頼み、そのまま朝食も食べずに寝込んでしまった。

取材旅行からの帰路の汽車で、野村はあの水について考えていた。あの水は確かに甘く、うまい水だったのだ。いくら喉が渇いていたとはいえ、まずい水には舌が反応する。つまり、あのぼうふらのわいた水はうまいと結論づけるほかない。では果たしてあの水の正体を知った今、それを飲むことができるだろうか。おそらく体がそれを拒否する。いや、心だって怪しいものだ。いくら理詰めで納得したところで、この身体はあの水をもう二度と飲めないだろう。もしあそこで神社へと戻らなければ。正しい手水の水を飲んでいれば。そもそも水など飲まなければ。今頃俺はぼんやりと汽車に乗り、土産の配分など考えていただろう。ではそいつと今の俺と、一体何が違うというのか。あの水を飲んで俺の中に何が生まれたのだ。あの神社で俺は何を知ったのだ。
野村の考えはまとまらぬまま、汽車は上野へと走っていった。

2010年7月5日月曜日

09 : 窓

夏休みに遊びに来た祖父の家の屋根裏部屋で、私たちは窓を見つけた。
たくさんの油くさいキャンバスの間、わんわん鳴くセミの日に、窓はずっしりと構えていた。
ぎゅうぎゅうと肩を押してくる蒸し暑い空気の中、まだ幼かった私たちはようやっと窓を引き出す。

ごてごてとうるさい装飾の付いた窓枠はたいへん重く、ごとんと自分一人で立っていられる窓である。
胸の高さまである窓の向こう側とこちら側に座り込んで、私と妹は鏡ごっこをする。
彼女が右手を振れば、私は左手をひらひらとしてやり、
私がおどけて左へのけぞれば、彼女は右へとよろめく。

ぼんやりとしたせまくうす暗い部屋へ、天窓からこがね色の陽が射していて、
そこらじゅう舞っているきらきらとしたごみが、いくつもの光の柱を作る。
ゆがんだガラスの向こう側の彼女は、まるであの胸をはやらせる夏休みの秘密のようで、

私は目が離せなく なる。

彼女の髪は細く、陽にあたるとはちみつにそっくりの色に生まれ変わる。
ふわふわとした眠気に襲われて、ガラスに額を預けて目を閉じると、
鼻先のガラス1枚を隔てた彼女は、古びたガラスがかびくさいねとくすくす笑う。

" ああ 彼女のように 笑わなくては "

――――唐突に胸のあたり、現実役の自分がつかえるようにしながら溢れ出してゆく。

ぼろぼろとこぼれていくのはきっと、ジャガイモの芽みたいな私の毒
窓枠にはめられたままのガラスは、もう立て付けがわるくて、たたくとばらばらと音がする。
私がガラスをたたくほど、向こう側から返ってくる

 ばらばら ばらばら ばらばら

この乱暴な歌と一緒に忘れてしまわなきゃならない

彼女のうすい唇 私の名前をかたちどる


***

riri*