2010年6月30日水曜日

08:カーテン


 カーテンから覗いているのは内田恵です。


 内田恵は幼少時代から夜に外を見るのが好きでした。大好きでした。カーテンをちらっと開けて、こっそり夜を覗き見るのです。息を止めて。まばたきも止めて。見つかってはダメ。アアこそこそ感。秘密の儀式。こっそり。ちらっと。じいっと。ン。

 しかしながら内田恵の眼球も次第にじくじく乾きます。内田恵もまばたきするしかないのです。さて内田恵がカーテンをちらっとしてから初のまばたきをした瞬間、不思議なことが起こります。なんということでしょう。内田恵の窓が他の窓と繋がります。

 その瞬間の内田恵は複数の窓に同時に現れます。その瞬間の内田恵は今にも5時間後にも5日後にも5年後にも現れます。場所は関係ありません。時間は関係ありません。


 夜。あなたがふと見上げた窓の向こう、カーテンの影から覗いているのは、いつでもいつかの内田恵です。


 また、内田恵が外から窓を見た時見つけるのも内田恵です。夜カーテンから覗いているのは内田恵でしかないのです。

 しかし不思議なものですね。内田恵が覗く夜はいつでも変わらず、その窓の向こうすぐに広がるそのままの夜でした。


 内田恵は実のところもう死んでいます。何年も前の話です。

 それでも内田恵の窓は今もすべての窓と繋がっています。

 内田恵は死んでいますが、あなたが窓の向こうに影を見る内田恵は生きている内田恵です。5歳だったり10歳だったり20歳だったり40歳だったりいたします。いずれも確かに生きた内田恵です。幽霊なんかじゃございません。生きた生身の内田恵です。


 あなたはこれからも、夜の向こうの窓の向こうのカーテンの向こうに、内田恵を見るでしょう。

 カーテンから覗いているのは内田恵です。


 どうか彼女によろしく。

2010年6月21日月曜日

07:雨

 雨止んだので電車なんか降りてしまってそれで歩いて帰ろう、と思った。左手できらきらしているのは短いビニール傘です、透明の、持ち手の白いやつ。雨降り出して困ったから大学の近くのファミマで買ったんです。ファミマから駅までは傘をさして歩いた。電車の中では傘を閉じていた。窓の外は長いことしらけていたけれど、文庫本を開いて閉じてしているうちにまったく明るくなっていた。そして電車なんか降りてしまった。ビニール傘なんか持ってても雨止んだ、から、しかたがない。最寄りマイナス2の駅の女子トイレの手え洗うとこの横に置いておきます。傘よ、誰かの役に立つといいね。
 それで、歩いて帰ろう、と思ったんだった。
 東口と西口とで迷ったけれど東口出たところに見えるのがたぶん団地でその横を歩くのはなんだかなあと西口を選ぶ。線路に沿って行けばいいんでしょうつまりは。どちらを選んだって。
  西口を出たところには民家が群れをなしている。二階建てで赤い屋根、だいたい同じようなつくりの民家民家民家。明るい夕暮れの中かたく閉ざされたカーテンたち。の、あいだを歩いて行く。右のほうに線路の存在を感じている。
 右のほうに線路の存在を感じる安心感。
 安心感のおかげで私は目をつむってだって歩ける。右のほうにあるだろう線路、どの方向にもわらわらとしている民家、か、カーテン、ん。
 「ん」、だ。
 終わっています。でも私は「ん」で始まることばを知らないでもないんです。ああでもそれってルールに反するんではないかとも思います。あと、目を開けずに歩くのはとても危ない。横を歩いている女の子にもそう言われて、そうだね、目を開ける。
 下を向いていたことには気づいていなかった。
 道はどうしようもなくキラキラしている。雨上がりだもの。顔をあげる。目の前に輝く白色は雨じゃなくって、雨は上がったんだもの、観覧車だ。私たちは白い観覧車を見上げている。女の子は赤いランドセルからスケッチブックを取り出して、さあ描くよと意気込む。
 でもだめだ。民家と私たちは平気なんです。でも観覧車は、位置が高いから大丈夫じゃない。ときどき吹く強い風に耐えきれず、人の入ってる白くて丸い箱がくるくるする。なかの人も微妙な半笑いでくるくるとするんです。女の子は色鉛筆を右手に持って、左手でスケッチブックを支えて、全部白っていうのはいけないよね、描けんもんねまったく、と言います。私は女の子に向かって、おまえはほんとうにだめだ、と思う。
 夕焼けで空が赤い、地面には赤い民家がはびこる。そのあいだにちょうどまるく白い観覧車だから逆ひのまるですね。ああ、だからほんとうにだめだ。
 観覧車の中でくるくるを続ける人びとのことを考える。みんな微笑んでいる。死んでしまうと思った。どうしようと女の子に訊いたけれど、女の子は答えなかった。絵を描くことに夢中なんです。私が先生に言わなければと気づく。だって、そうでしょう。みんなカーテンをぴっちりと閉ざし、女の子はきこえない振りをする。
 私は山道を走り出す。道は濡れて真っ黒だった。振り返ると遠くに線路が見えた。遠くに、のところで疲れて座り込む。すると耳元で友だちの声がして、そろそろ洗濯するから着替えてよと言う。
 家に帰ろう、と思いました。


   窓をごらん。すがるように糸をひいて、雨、散っていく! 雨、散っていく!

2010年6月6日日曜日

06 : ヴァイオリン


終電を降りて、土砂降りの雨の中、駅からアパートまでの道のりを、
今日はいつもより余計に時間をかけて歩いている。

どこからか雨音の奥深く——それが雨粒を伝うようにして——音が聴こえる。音楽なような、声のような。

その音に誘われるように、見慣れない脇道を曲がると、僕はヴァイオリンを演奏する女の子に出会った。

女の子はこちらに気づいたようではあったが、目線は遠くの雨を見つめるようにしたままで、ヴァイオリンを演奏し続ける。

女の子の奏でるヴァイオリンはf字孔からあふれるくらいの雨でみたされ、楽器としての死を潔く受け入れているかのようで、僕にはそのヴァイオリンがいくらか不憫な境遇にあるように思えた。

ヴァイオリンと同じぐらいぐっしょりの弓で、女の子はとても真剣な様子で演奏を続ける。聴こえてくる音——旋律はなぜだか妙に懐かしく、そして吸い取られていくみたいに雨の町へと消えていくようだった。

「ここで、なんのために、なにを、弾いているの?」
自分の沈黙と注目に気づき、慌てて僕は尋ねた。

「雨音の、雨、そのものの音を、伝えているの。」
女の子はヴァイオリンから顎を離して、答えた。
か細さの中に決然とした意志が包み込まれているような——僕の傘に当たる雨粒の音の中でやけによく聞こえるその声で——女の子は言葉を続けた。
傾いたヴァイオリンのf字孔から、いくらかの雨がこぼれ落ちた。

「雨の音、を、あなたは、聴いたことないでしょう。」「雨は、多すぎるし、ここには、遮る物も、とても、多いから。」

「そのヴァイオリンが、その雨の音を、代弁するの?」

「ちがうよ。きっかけを、作るだけ。」「与えれば、雨は、記憶、を語りたがるわ。」

「なるほど。」女の子の言葉になぜだか納得してしまって、僕は頷いた。

「あなたの思う、雨音は、あなたの思う、誤解なのよ。知っている、気がしているだけ。でも、私も、実は、そうなの。知っている、気がして、ヴァイオリンを、弾いているだけ。 

・・・・ふうん。知らないこと、多すぎる、わね。」
女の子は鼻をならすようにしてそうつぶやいて、また水浸しのヴァイオリンを弾き始めた。

僕は、持っていた傘を閉じて丁寧にたたみ、女の子の足下のヴァイオリンケースのわきに置いて、お礼を言った。

振り返って脇道を戻っていくと、ヴァイオリンの音はすぐに遠ざかるようにして届かなくなった。



アパートへの道を、びしょ濡れになりながら、ゆっくりと歩く。


雨は、降り続けている。