2010年12月23日木曜日

11 : 小さな目


今日は影がいない日だ。影がいない日は心持ち足取りが軽い。それは影がちょっとだけ重さを肩代わりしてくれるからだという。
「ええ、あなたのおかげでどこに出しても恥ずかしくない立派な影としてやれているわけですから、これくらいのお礼は当然です。」
影はそういって朝からどこかへ行ってしまう。僕の重さをちょっと持って。
影がいったいどこで何をしているのか知らないが、たまに誰かの影がスーパーで特売弁当を買っていたり、ハトにポップコーンをやっていたりするのを見かけるから、そんな風に過ごしているのだろう。
影がいなくなるのは月に2度ほどで、水曜日と木曜日が圧倒的に多く、たまに金曜日のときもある。月曜日が年に3度ほど、火曜日だったことは1度もなかった。
土日祝日は影にとっても休日であるらしい。僕の足下にぺたりと張り付き、ゆっくりしている。用事がないときは一緒にトランプをしたり花札をしたりしている。トランプは僕の圧勝だが、花札は影が一枚上手だ。1度コツを聞いたが、企業秘密と教えてくれなかった。
僕はそんな休日が大好きだ。影がいるとなんだか窮屈、なんて人もいるらしいが、僕はもっと影と過ごしていたいと思っている。そういうことを影にいうと、顔も表情もない影はちょっとはにかんだように笑い、その後寂しそうな顔をする。影曰くあまり影と親しくするのはよろしくないらしい。
「影には影の領分があります。そこに踏み込むことは絶対にできません。あなたと私が形と影の関係にある限り。」


影のいない木曜日、仕事場で僕の影がないことに気づいた同僚に声をかけられた。
「おっ、今日は影なし日か。どうよ、調子は?」
僕はあいまいに頷き、同僚に影がいたほうがいい気がすると言った。すると同僚が、
「なあ、影ってどこで何をしてるんだと思う?」
などと言い出した。僕がおおかた公園でのんびりでもしてるだろうというと、
「いや、実はな‥‥ どうも、影で集まって何かを議論してるらしいんだよ。」
全く眉唾な話だ。同僚も馬鹿な話であることは理解していて、にやりと笑いながら
「影達は、自分達が人間の影に甘んじていていいのか、独立した影としてやっていくことこそ影の未来の方向性である、みたいなことを話し合ってるらしいんだ。」
ほら話もここまでくるとちょっとしたハリウッド映画みたいだ。
「でな、ライバルの例の会社。影に肩入れして、うまいこと取り入ろうとしてるってよ。」
噂の出自を問いただすと、
「うちの部長だよ。」
と、あっさり全貌は成績の伸び悩みでイライラした部長の愚痴であることがわかった。
「まあ、影なんかに興味持ってる暇があったら、仕事でもした方がよさそうだな。」
そう言って同僚はそそくさと自分の持ち場に戻っていった。どうやら噂の部長が会議から戻ってきたようだ。


影のいない木曜日のある日、誰かの影を見かけた。川べりの原っぱで野良猫に猫じゃらしを振っていた。そこで同僚の話を思い出した。こんな善良な影がまさかそんなことを企んでいるはずもない。本気にはしていないが、何となく興味があったので近づいた。猫がこちらを一瞥したが、またすぐ猫じゃらしに気を取られた。小さな目に映る誰かの影の姿は、とても幸せそうだった。
こんにちはと挨拶をする。誰かの影がこちらを振り返った。誰かの影はとまどっているようだった。シャイなのかもしれない。
ここにはよく来るのかと聞いても、誰かの影はなおもたじろいでいた。僕はだんだん影への興味を失っていった。
「猫が好きなんですか?」
と聞くとようやく誰かの影は
「ええ、ここにもよく来ます‥‥」
とポツリと言った。
天気の話をし、猫を少し撫で、僕は誰かの影に別れを告げ家に帰った。



家に帰ると僕がいた。僕は僕におかえりといい、コーヒーをいれてくれる。
コーヒーを飲み、いつの間にか手にしていた僕の重さを返し、僕は影になった。
週末の予報は雨。
絶好のカードゲーム日和だ。

2010年7月25日日曜日

10 : 光の柱





石造りの長い階段を登り切るとそこは夜の中だった。
振り返る眼下にはガス灯がまばらに灯り、見上げる星々は力強く空を所有していた。
古びた神社に人影はなく、野村は一組の狛犬に出迎えられた。

野村がここを訪れたのは単なる気まぐれだった。頼まれた原稿の執筆のために、野村はひなびた温泉街に取材旅行へとやってきた。遠出を促す紀行文の類だが、なかなか書けずにもんもんとしていた。筆がのるとひたすら書き続ける性格の野村は、昨日の早朝ようやく訪れた波にのって原稿を書き終えた。昼間に死んだように眠り、夜中の2時には起きてしまい、ずっと自己主張を続ける空腹をなだめすかせるために、朝食の時間まで深夜の散歩に出かけたのだった。

夜の神社も乙なものだと、野村は月明かりを頼りに境内の散歩をした。こんなことなら部屋から酒を持ってくれば良かった。いやいくら何でも旅先の見知らぬ神社で、いきなり酒を飲むのは不敬だな。そんなことを考えながら、野村は鎮守の森へとさしかかった。

ほのかに浮かぶ木々の輪郭を目印に細い道を歩いて行く。幸い道はそれなりの確かさを持っていた。しばらく歩を進めると、一際濃い闇があたりに広がった。巨大な樹木だった。あまりの大きさに野村はしばらく見とれてしまっていた。その木は、年月を経たものだけが帯びる独特の格をあらゆるところから放っていた。信仰とはこういうところから生まれるのだろう。自分のいる世界とは理を異にする場所、この二つの小さな目では推し測ることさえできない、遙かに大きなモノたち。この世界とそれらは、ふとしたきっかけで交差し、互いを垣間見させる。野村はそんなことを考えつつ、御神木へと手を合わせた。

御神木を参拝し終え、野村は境内へと戻ってきた。昼間の熱がいまだに残っているのか、夜でも蒸し蒸しと暑い。野村はずっと喉の渇きを覚えていた。ふと傍らに目をやると、手水らしきものがある。あたりに人などいるはずもない。一応心の中でこの神社に鎮座まします神様へ断りをしてから、迷わず置いてあったひしゃくを手に取り、野村は手水の水をごくごくと飲んだ。甘みのあるうまい水だ。野村はそのまま4杯ほど飲むと、ふぅっと息をついた。普段は水のうまさなんてほとんど考えないが、喉の渇いたときに飲む水は何よりうまい。しかし水を飲んだせいで耐え難い空腹が襲ってきた。上を見上げると空は白み始めていた。そろそろ帰り時だ。野村は神社を後にすることにした。

階段を中腹まで下ると、夜明けがやってきた。何本もの光の柱が空と大地とを突き刺していた。何百年も前の人間も同じような空を見て、また信仰心を深めたのだろうか。野村は今回の一連の散歩を次の小説にでも使おうかと思い、そこでこの神社についてほとんど何も見ずに来てしまったことに気づいた。途中まで下りてきてしまってはいたが、戻ってせめてどなたを祀っているかくらいは調べた方がいいだろう。野村はまた階段を上っていくことにした。

立て看板を一通り読み、頭に刻み込むと、野村は最後にもう1杯だけ水を飲もうと手水へ近づいた。だが野村はその手水に違和感を覚えた。さっきと位置が違うのだ。野村は自分の足取りをもう一度思い起こし、手水があったはずの場所に目をやると、そこにあるのは雨水を貯める桶だった。近づくとぼうふらがうじゃうじゃと蠢いた。野村は空っぽの胃から水を吐いた。喉の奥が焼けるように痛い。身体の中でぼうふらが踊るような心地がして、身震いをした。

ある程度落ち着いた後に野村はふらふらとした足取りで宿へと帰り、書き上げた原稿を出版社まで郵便で送るよう女中に頼み、そのまま朝食も食べずに寝込んでしまった。

取材旅行からの帰路の汽車で、野村はあの水について考えていた。あの水は確かに甘く、うまい水だったのだ。いくら喉が渇いていたとはいえ、まずい水には舌が反応する。つまり、あのぼうふらのわいた水はうまいと結論づけるほかない。では果たしてあの水の正体を知った今、それを飲むことができるだろうか。おそらく体がそれを拒否する。いや、心だって怪しいものだ。いくら理詰めで納得したところで、この身体はあの水をもう二度と飲めないだろう。もしあそこで神社へと戻らなければ。正しい手水の水を飲んでいれば。そもそも水など飲まなければ。今頃俺はぼんやりと汽車に乗り、土産の配分など考えていただろう。ではそいつと今の俺と、一体何が違うというのか。あの水を飲んで俺の中に何が生まれたのだ。あの神社で俺は何を知ったのだ。
野村の考えはまとまらぬまま、汽車は上野へと走っていった。

2010年7月5日月曜日

09 : 窓

夏休みに遊びに来た祖父の家の屋根裏部屋で、私たちは窓を見つけた。
たくさんの油くさいキャンバスの間、わんわん鳴くセミの日に、窓はずっしりと構えていた。
ぎゅうぎゅうと肩を押してくる蒸し暑い空気の中、まだ幼かった私たちはようやっと窓を引き出す。

ごてごてとうるさい装飾の付いた窓枠はたいへん重く、ごとんと自分一人で立っていられる窓である。
胸の高さまである窓の向こう側とこちら側に座り込んで、私と妹は鏡ごっこをする。
彼女が右手を振れば、私は左手をひらひらとしてやり、
私がおどけて左へのけぞれば、彼女は右へとよろめく。

ぼんやりとしたせまくうす暗い部屋へ、天窓からこがね色の陽が射していて、
そこらじゅう舞っているきらきらとしたごみが、いくつもの光の柱を作る。
ゆがんだガラスの向こう側の彼女は、まるであの胸をはやらせる夏休みの秘密のようで、

私は目が離せなく なる。

彼女の髪は細く、陽にあたるとはちみつにそっくりの色に生まれ変わる。
ふわふわとした眠気に襲われて、ガラスに額を預けて目を閉じると、
鼻先のガラス1枚を隔てた彼女は、古びたガラスがかびくさいねとくすくす笑う。

" ああ 彼女のように 笑わなくては "

――――唐突に胸のあたり、現実役の自分がつかえるようにしながら溢れ出してゆく。

ぼろぼろとこぼれていくのはきっと、ジャガイモの芽みたいな私の毒
窓枠にはめられたままのガラスは、もう立て付けがわるくて、たたくとばらばらと音がする。
私がガラスをたたくほど、向こう側から返ってくる

 ばらばら ばらばら ばらばら

この乱暴な歌と一緒に忘れてしまわなきゃならない

彼女のうすい唇 私の名前をかたちどる


***

riri*

2010年6月30日水曜日

08:カーテン


 カーテンから覗いているのは内田恵です。


 内田恵は幼少時代から夜に外を見るのが好きでした。大好きでした。カーテンをちらっと開けて、こっそり夜を覗き見るのです。息を止めて。まばたきも止めて。見つかってはダメ。アアこそこそ感。秘密の儀式。こっそり。ちらっと。じいっと。ン。

 しかしながら内田恵の眼球も次第にじくじく乾きます。内田恵もまばたきするしかないのです。さて内田恵がカーテンをちらっとしてから初のまばたきをした瞬間、不思議なことが起こります。なんということでしょう。内田恵の窓が他の窓と繋がります。

 その瞬間の内田恵は複数の窓に同時に現れます。その瞬間の内田恵は今にも5時間後にも5日後にも5年後にも現れます。場所は関係ありません。時間は関係ありません。


 夜。あなたがふと見上げた窓の向こう、カーテンの影から覗いているのは、いつでもいつかの内田恵です。


 また、内田恵が外から窓を見た時見つけるのも内田恵です。夜カーテンから覗いているのは内田恵でしかないのです。

 しかし不思議なものですね。内田恵が覗く夜はいつでも変わらず、その窓の向こうすぐに広がるそのままの夜でした。


 内田恵は実のところもう死んでいます。何年も前の話です。

 それでも内田恵の窓は今もすべての窓と繋がっています。

 内田恵は死んでいますが、あなたが窓の向こうに影を見る内田恵は生きている内田恵です。5歳だったり10歳だったり20歳だったり40歳だったりいたします。いずれも確かに生きた内田恵です。幽霊なんかじゃございません。生きた生身の内田恵です。


 あなたはこれからも、夜の向こうの窓の向こうのカーテンの向こうに、内田恵を見るでしょう。

 カーテンから覗いているのは内田恵です。


 どうか彼女によろしく。

2010年6月21日月曜日

07:雨

 雨止んだので電車なんか降りてしまってそれで歩いて帰ろう、と思った。左手できらきらしているのは短いビニール傘です、透明の、持ち手の白いやつ。雨降り出して困ったから大学の近くのファミマで買ったんです。ファミマから駅までは傘をさして歩いた。電車の中では傘を閉じていた。窓の外は長いことしらけていたけれど、文庫本を開いて閉じてしているうちにまったく明るくなっていた。そして電車なんか降りてしまった。ビニール傘なんか持ってても雨止んだ、から、しかたがない。最寄りマイナス2の駅の女子トイレの手え洗うとこの横に置いておきます。傘よ、誰かの役に立つといいね。
 それで、歩いて帰ろう、と思ったんだった。
 東口と西口とで迷ったけれど東口出たところに見えるのがたぶん団地でその横を歩くのはなんだかなあと西口を選ぶ。線路に沿って行けばいいんでしょうつまりは。どちらを選んだって。
  西口を出たところには民家が群れをなしている。二階建てで赤い屋根、だいたい同じようなつくりの民家民家民家。明るい夕暮れの中かたく閉ざされたカーテンたち。の、あいだを歩いて行く。右のほうに線路の存在を感じている。
 右のほうに線路の存在を感じる安心感。
 安心感のおかげで私は目をつむってだって歩ける。右のほうにあるだろう線路、どの方向にもわらわらとしている民家、か、カーテン、ん。
 「ん」、だ。
 終わっています。でも私は「ん」で始まることばを知らないでもないんです。ああでもそれってルールに反するんではないかとも思います。あと、目を開けずに歩くのはとても危ない。横を歩いている女の子にもそう言われて、そうだね、目を開ける。
 下を向いていたことには気づいていなかった。
 道はどうしようもなくキラキラしている。雨上がりだもの。顔をあげる。目の前に輝く白色は雨じゃなくって、雨は上がったんだもの、観覧車だ。私たちは白い観覧車を見上げている。女の子は赤いランドセルからスケッチブックを取り出して、さあ描くよと意気込む。
 でもだめだ。民家と私たちは平気なんです。でも観覧車は、位置が高いから大丈夫じゃない。ときどき吹く強い風に耐えきれず、人の入ってる白くて丸い箱がくるくるする。なかの人も微妙な半笑いでくるくるとするんです。女の子は色鉛筆を右手に持って、左手でスケッチブックを支えて、全部白っていうのはいけないよね、描けんもんねまったく、と言います。私は女の子に向かって、おまえはほんとうにだめだ、と思う。
 夕焼けで空が赤い、地面には赤い民家がはびこる。そのあいだにちょうどまるく白い観覧車だから逆ひのまるですね。ああ、だからほんとうにだめだ。
 観覧車の中でくるくるを続ける人びとのことを考える。みんな微笑んでいる。死んでしまうと思った。どうしようと女の子に訊いたけれど、女の子は答えなかった。絵を描くことに夢中なんです。私が先生に言わなければと気づく。だって、そうでしょう。みんなカーテンをぴっちりと閉ざし、女の子はきこえない振りをする。
 私は山道を走り出す。道は濡れて真っ黒だった。振り返ると遠くに線路が見えた。遠くに、のところで疲れて座り込む。すると耳元で友だちの声がして、そろそろ洗濯するから着替えてよと言う。
 家に帰ろう、と思いました。


   窓をごらん。すがるように糸をひいて、雨、散っていく! 雨、散っていく!

2010年6月6日日曜日

06 : ヴァイオリン


終電を降りて、土砂降りの雨の中、駅からアパートまでの道のりを、
今日はいつもより余計に時間をかけて歩いている。

どこからか雨音の奥深く——それが雨粒を伝うようにして——音が聴こえる。音楽なような、声のような。

その音に誘われるように、見慣れない脇道を曲がると、僕はヴァイオリンを演奏する女の子に出会った。

女の子はこちらに気づいたようではあったが、目線は遠くの雨を見つめるようにしたままで、ヴァイオリンを演奏し続ける。

女の子の奏でるヴァイオリンはf字孔からあふれるくらいの雨でみたされ、楽器としての死を潔く受け入れているかのようで、僕にはそのヴァイオリンがいくらか不憫な境遇にあるように思えた。

ヴァイオリンと同じぐらいぐっしょりの弓で、女の子はとても真剣な様子で演奏を続ける。聴こえてくる音——旋律はなぜだか妙に懐かしく、そして吸い取られていくみたいに雨の町へと消えていくようだった。

「ここで、なんのために、なにを、弾いているの?」
自分の沈黙と注目に気づき、慌てて僕は尋ねた。

「雨音の、雨、そのものの音を、伝えているの。」
女の子はヴァイオリンから顎を離して、答えた。
か細さの中に決然とした意志が包み込まれているような——僕の傘に当たる雨粒の音の中でやけによく聞こえるその声で——女の子は言葉を続けた。
傾いたヴァイオリンのf字孔から、いくらかの雨がこぼれ落ちた。

「雨の音、を、あなたは、聴いたことないでしょう。」「雨は、多すぎるし、ここには、遮る物も、とても、多いから。」

「そのヴァイオリンが、その雨の音を、代弁するの?」

「ちがうよ。きっかけを、作るだけ。」「与えれば、雨は、記憶、を語りたがるわ。」

「なるほど。」女の子の言葉になぜだか納得してしまって、僕は頷いた。

「あなたの思う、雨音は、あなたの思う、誤解なのよ。知っている、気がしているだけ。でも、私も、実は、そうなの。知っている、気がして、ヴァイオリンを、弾いているだけ。 

・・・・ふうん。知らないこと、多すぎる、わね。」
女の子は鼻をならすようにしてそうつぶやいて、また水浸しのヴァイオリンを弾き始めた。

僕は、持っていた傘を閉じて丁寧にたたみ、女の子の足下のヴァイオリンケースのわきに置いて、お礼を言った。

振り返って脇道を戻っていくと、ヴァイオリンの音はすぐに遠ざかるようにして届かなくなった。



アパートへの道を、びしょ濡れになりながら、ゆっくりと歩く。


雨は、降り続けている。

2010年5月23日日曜日

05 : ビー玉


夏休みの昼過ぎ、わたしは部活帰りだった。
いつもの道をいつものように歩いていると、シャッターの閉まった材木工場の前で工作にいそしむ男の子をみかけた。


「ここで何してるの?」
「お姉さん、高校生?」
そうだよ。
わたしは答えた。
楽器を作ってる。
男の子は答える。
「どんな楽器?」
それは不思議な楽器だった。節で上下がふさがれた竹の、片方に十円玉くらいの穴が開いていて、竹のまわりをまいたたこ糸が穴から中におりていた。
「どうやって使うの。」
好奇心で男の子に聞いてみた。
「たこ糸の先にビー玉がついていて、竹を回転させることでビー玉がこすれて音が出る。」
男の子はそう答える。
ふうん。わたしはそう言って、そのままじっと男の子の作業を観覧していた。


「それ、夏休みの宿題?」
私はなんとなく聞いてみた。
「違う。」
男の子はそれきり黙ってしまう。


「ねえお姉さん。」
「ん?何?」
「お姉さんが普段何気なく頭の中で考えてることそのままの内容がさ、もっとわかりやすく本とかに書いてあったらどうする?」
2分ほどの沈黙の後、男の子がいきなりそんなことを尋ねてきた。目線は相変わらず手元だけど。
どうするだろ、と考えてると男の子はわたしを無視して続けた。
「そういう時ってさ、作者が自分をよく知ってて、自分の気持ちを代弁してるみたいに感じるんだよな。」
男の子はふと視線をあげてそう言った。視線の先では古い選挙のポスターが日本の未来を宣言していた。
「でもさ、その作者は俺のこと知らないし、俺が何考えてるかなんかわかりっこないんだ。俺のために書いてるわけじゃない。そうだろ?」
そうかな、と思ったけどとりあえずわたしは黙っていた。
「それなのに、自分はその人と友達になったような気がしちゃうんだ。その人が自分のことを、もしかしたら世界で一番わかってくれる。そこでお姉さん、もしその人が死ねって書いたら死ぬ?」
いや、とわたしは答える。
「死ぬのはわたしの勝手だもん。そいつに決められる理由なんてこれっぽっちもないね。」
わたしは胸をはる。
男の子はわたしのささやかな胸にはいちべつもくれずに言う。
「そう、それで死ぬのは馬鹿だよ、でも、その人がたとえば『整頓された机は整頓された脳を意味する』とか言ったらちょっと机を片付けようって思っちゃうだろ?」
う、そうかも。とわたしは言った。頭に漫画で陥落した自分の勉強机がよぎる。
「文字には不思議な力がある。これ、ドラマのセリフだけどさ、文字ってそうやって人に働きかけることができるんだよな。」
なるほど。
「それで、どうしてそんな楽器を作ってるのよ。」
わたしは話のきっかけを思い出して尋ねた。
「お姉さん、ヴァイオリンやってるんだろ。」
「うん。よく知ってるね、これがバイオリンケースだって。」
わたしはその子のヴァの発音がちょっといいなと思いつつ言った。
「友達がやってるんだ。それはどうでもよくて、お姉さんはプロのヴァイオリニストの演奏聞いて感動するだろ?」
「そりゃ、まあね。」
「音ってのは響きだろ。文字も響きさ。たとえ活字を読んだとしても、絶対頭にその言葉が響くようになってる。人間の頭の骨は共鳴するようにできてる。人間が言語を習得したのは頭蓋骨のせいだっていう学者がいるくらいなんだぜ。響きが感動を生むんだ。それだけじゃない。悲しみや喜びも響きで伝わる。事実そうやってお金を稼いでる、アーティストみたいな人がいっぱいいるだろ。」
うん。
「それとこの楽器がどう関係するのよ。」
「響きで人を操れると思うんだ。」
男の子は再び顔をあげて言う。
ふうん。わたしは答えた。
「響きで人を操って、どうするの?」




「世界征服。」
男の子は何のためらいもなくそういった。





男の子の世界征服が成功しないように、わたしは今日もヴァイオリンを練習している。

2010年5月16日日曜日

04:透明なからだ


 帰り道に金魚を拾った。街灯と見分けられないくらい月が大きく明るい夜だった。電柱の短い影の中にうずくまっていた小さな金魚を私は拾った。両手で。
 部屋までたどりつくと金魚の世話は右手にさせて、左手ではコップに水を張った。コップの底にひとつ、透明なビー玉を落とした。そして金魚をコップに移した。崩さないよう慎重に移した。
 という設定。
 にあの子も乗ってくれていて、私たちは毎日ふたりで金魚の世話をした。毎朝コップの水とビー玉を替える。ふたりともが大学に行っているあいだも、部屋を真っ暗にはしないようにする。毎晩クラシック音楽を聴かせる。
「喜んでる?」とあの子が訊ねる。選曲はぜんぶあの子に任せていた。
「喜んでるよ」と私は答える。私はだいたいの曲を気に入ったけれど、金魚は不満そうにすることも多かった。
 そういう日々が続いた。
 好きなものや嫌いなもの、動作や表情、人間のことばの中で意味のわかるもの。金魚の設定はどんどん増えた。後からなかったことにした設定もあった。私たちふたりはまったく金魚の神様だった。
「金魚が死んだ」とあの子が言ったのは、私のほうが遅く帰った夜だった。
「やたら水面をつつくからビー玉をまた替えてやろうと思ったの。古いビー玉を取り出すまではよかったんだけれど、新しいのを落とすときに、それが金魚にぶつかってしまった」あの子はそう説明した。
「それは残念だったね」私は言いながら冷蔵庫の扉を開け、ケチャップを取り出した。ビー玉と、金魚の動かなくなった透明なからだが横たわるコップの中に、ケチャップをちょっとだけこぼす。コップを持ち上げて少し揺らすと、ケチャプの糸がはらはらと崩れた。
「それは?」とあの子が訊ねた。
「リアリティ」と私は答える。
 薄いケチャップ水をふたりで交互に飲んだ。ビー玉だけ残った。埋めようとあの子が言うからそのビー玉だけは台所のネギのところに埋めた。他のビー玉はまだ部屋中に散らばっている。あの子とは別れちゃってもう一緒に部屋に居ることもないから、どうせあと少しの命だったよなあ金魚、と思う。


   透明なからだ あたしたちがまざりあっても誰も気づかないんだ

2010年5月9日日曜日

03:集合団地



***

やたらとぐらぐら揺れる箱を降りて、長いコンクリートの廊下を2回右に曲がったところに部屋がある。
割り当てられたにしては気に入っている、奥行きのある長方形の角部屋は、
ガラス製のローテーブルとこぢんまりとした乳白色のソファ、
ベランダにある誰かが残していった雨ざらしのアロエの鉢、
そんなものが見渡せる小さな部屋だ。
それらに洗面台とユニットバス、玄関ドアと僕を合わせると、結構おさまりのいい状態になる。


僕は丁寧に靴を脱いで上がり、ちょうど2回の呼吸をおいてソファへ腰かける。
カーテンのないただひとつの大きな窓には、夜明けの空にあらわれる、あのふわふわとしたクラゲがいくらかただよっていて、
正面の壁に透明なからだのやさしげな色を反射させている。





物音がしてクラゲたちがさざめくので、僕は窓の外に備え付けられた箱の扉を開き、
金属製の円筒に顔を近づけ、ボブディランを2フレーズ歌った。
それから円筒のふたをしっかり閉め、もう一度扉の中へおさめて、レバーを引く。
それは静かに下の住人へと届く と僕は思っている。


なじみのクラゲを何匹か部屋に招いて、ユニットバスに水を張ってやる。
彼らが音楽を奏ではじめたら、僕はそのメロディを口ずさんでみて、口に合えば、明日使う。
合わなければ、ひととおりの挨拶を交わして、彼らは帰っていく。
上も下も右も左も たぶん同じような部屋があって、
奥行きのある空間があって、
おそらく同じような歌が生まれている 

と僕は思っている。

***

riri*

02 : 角砂糖


その夜の光はとても美しく そして正確な立方体だった。

昼間の日から切り抜かれたそれが 月からゆっくりと飛来する間
僕らの住む町はひどく安心感のない ひどく研ぎ澄まされた光に
包まれることになった。

集合団地の側面に敷き詰められた窓ガラスは 嫌な音を立てながら削り取られてゆき
青みのかかった暗闇で 信号機だけが弱々しい点滅をくりかえす

誰も何もが息もせずにただその光の着水だけをじっと待っていた。

三度の長く重い瞬きの間に
枝から一枚の葉が生まれ、育ち、枯れていくような
一切を押し殺した静寂を経て

その立方体は八つのうちの一つの頂点から ゆっくりと湖面に溶け出してゆく

音はなく、湖面にはただ幾重もの円が正確な中心を保ったまま 生まれてはそっと消えていく

僕はそれを本当に美しいと思ったし
今となってはその立方体が完全に溶けきってしまうのが少し心惜しかった。


空が、町が、呼吸を取り戻す

青く染まった世界に 静かな朝が来る。


2010年5月8日土曜日

01:ヒツジ



***

ねむれない夜に数える あの100匹のヒツジは
睡眠にまつわる あらゆることを知っているから、
こまったときには ヒツジを数える。

ヒツジのあのふわふわの中には、
まくらのいちばんベストなかたちも、
あたためたミルクに入れた角砂糖のかきまぜかた、
ちょうどよくおさまりのいいからだのまるめかた、
じょうずなふとんのしわのよせかた、
ひとりひとりにぴったりの こもりうた、
ヒツジはみんなじょうずに隠している。

夜が明けると、
100匹のヒツジは それぞれ大きなかさを開いて、
くものうえからさかさまに するすると降ろして、
かさこそとおしゃべりをつづける夢を すくっていく。
夢たちは かさに気づくと、 けらけら笑う。

ひょいとすくった ソレ を、
ヒツジたちはていねいに ガラガラにおさめる。
くすくす笑う声を聴きながら、
こわがらせないように ゆっくりゆっくりガラガラを回す。
からころところがる音がしなくなったら、
型に流して 180度で 焦げ目がつくまでじっくり焼く。
水分が多いとぺしゃんこになるけど、
ヒツジたちは、ナイフとフォークできれいに残さずたべる。

ごちそうさま、と言う。

ヒツジたちは、
何も言わずに 柵をとびこえて明日へゆく。
世界が眠りにつくその日も、
夢の中の待ち合わせスポットも、
会いたいひとの探し方も、
ぜんぶ知っていながら。

今日も夜が満ちて、 そして 夢がはじまる。

***

riri*