終電を降りて、土砂降りの雨の中、駅からアパートまでの道のりを、
今日はいつもより余計に時間をかけて歩いている。
どこからか雨音の奥深く——それが雨粒を伝うようにして——音が聴こえる。音楽なような、声のような。
その音に誘われるように、見慣れない脇道を曲がると、僕はヴァイオリンを演奏する女の子に出会った。
女の子はこちらに気づいたようではあったが、目線は遠くの雨を見つめるようにしたままで、ヴァイオリンを演奏し続ける。
女の子の奏でるヴァイオリンはf字孔からあふれるくらいの雨でみたされ、楽器としての死を潔く受け入れているかのようで、僕にはそのヴァイオリンがいくらか不憫な境遇にあるように思えた。
ヴァイオリンと同じぐらいぐっしょりの弓で、女の子はとても真剣な様子で演奏を続ける。聴こえてくる音——旋律はなぜだか妙に懐かしく、そして吸い取られていくみたいに雨の町へと消えていくようだった。
「ここで、なんのために、なにを、弾いているの?」
自分の沈黙と注目に気づき、慌てて僕は尋ねた。
「雨音の、雨、そのものの音を、伝えているの。」
女の子はヴァイオリンから顎を離して、答えた。
か細さの中に決然とした意志が包み込まれているような——僕の傘に当たる雨粒の音の中でやけによく聞こえるその声で——女の子は言葉を続けた。
傾いたヴァイオリンのf字孔から、いくらかの雨がこぼれ落ちた。
「雨の音、を、あなたは、聴いたことないでしょう。」「雨は、多すぎるし、ここには、遮る物も、とても、多いから。」
「そのヴァイオリンが、その雨の音を、代弁するの?」
「ちがうよ。きっかけを、作るだけ。」「与えれば、雨は、記憶、を語りたがるわ。」
「なるほど。」女の子の言葉になぜだか納得してしまって、僕は頷いた。
「あなたの思う、雨音は、あなたの思う、誤解なのよ。知っている、気がしているだけ。でも、私も、実は、そうなの。知っている、気がして、ヴァイオリンを、弾いているだけ。
・・・・ふうん。知らないこと、多すぎる、わね。」
女の子は鼻をならすようにしてそうつぶやいて、また水浸しのヴァイオリンを弾き始めた。
僕は、持っていた傘を閉じて丁寧にたたみ、女の子の足下のヴァイオリンケースのわきに置いて、お礼を言った。
振り返って脇道を戻っていくと、ヴァイオリンの音はすぐに遠ざかるようにして届かなくなった。
アパートへの道を、びしょ濡れになりながら、ゆっくりと歩く。
雨は、降り続けている。
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